3分で名著《コッローディ「ピノッキオの冒険」》(100分de名著より)

今回取り上げるのは、あの有名な「ピノキオ」のお話。


しかし、あの有名な「ピノキオ」とは、ディズニー映画のピノキオであって、原作のピノキオとは映画とは似て非なる所があるそう。


原作のピノキオは、ディズニーのピノキオよりももっと手がつけられない悪童として描かれているそうです。そして最終的に人間になるという成長の過程においても、もっともっと周囲の人に迷惑をかけるし、相手を裏切って自分勝手な行動をし、結局自分が追い込まれるという問題の繰り返しが起こる。つまりどうしようもない子どもとして描かれているようなのです。


ディズニーでは、こうしたピノキオの「毒」の部分は大分抑えられて描かれているのですが、こうした原作の味やその深い意味について、講師の和田忠彦先生は紹介されています。


子育てにおいて、「子どもが言うことを聞かない」「自分勝手な行動をして、注意をしても危ない思いを何度も繰り返す」というのは定番の物語ですね。親の立場からすれば、ヒヤヒヤすることでもあり、そうした事を先回りしてやめさせたり、抑え込んだりもしがちで、場合によっては親子のぶつかり合いや、後にまで影響する遺恨をも生んでしまう。


しかしこの「定番物語」や「繰り返し」のマイナス面だけでない、重要な意味がこの物語には描かれているようなのです。


この物語では「子ども」のピノッキオが、大人の言い分ではなく自分の感性で決断をして、間違った方向に向かっていく。これを何度も何度も繰り返す。


例えば、物語の中でピノキオの危機を助けてくれる「仙女」が登場するのですが、その度に彼は更生を約束をするのに、その後も詐欺師の「甘い言葉」に簡単に騙されて痛い目にあう。この繰り返しに、読んでいる方は「いいかげんに間違いに気づかないの?」って突っ込みたくなるのですすが、彼は変わることができない。そしてその結果仙女は裏切りの苦痛から死んでしまう。


ちなみに「子どもの認知構造」という専門的な観点から言えば、自分の過ちやその結果で問題が生じてそれを反省したとしても、時間が経って甘い話を聞いてしまうと、それを信じて疑わなくなる。つまり「目の前の見えているものだけが全て」という状況は、学童期以前の幼い子ども特有の構造でもあります。


こうした認知的構造とその克服は、それこそ多くの失敗を通して「学ぶ」課題なのです。また言い換えれば、本人も周囲の大人にとっても、「痛み」の伴う経験でもある。


こうした痛みを伴う成長の物語が、児童文学であるピノッキオの中では生々しくも、面白おかしく書かれているわけです。


原作者である「コッローディ」自身も、統一国家として歩み始めた19世紀のイタリアにおいて、子どもの教育を司る教科書の編纂にという重要な仕事に携わっていながら、一方で今で言う「ギャンブル依存症」を抱えている人でもあった。つまりは理性と感情の間で矛盾を抱えるような人生を歩む人でした。だからこの話は、子どもの問題としてだけでなくコッローディを含めた大人の問題として理解することもできる。


子どものピノッキオは、感情的に判断をして理性が育っていないことが問題でしたが、大人にとっては感情を捨てて理性的に生きようとすればするほど、抑え込んだ感情や欲求がその裏で悪さをすることがある。これは人間の普遍的なテーマでもあると私は感じます。つまり「良いこと」と「悪いこと」のどっちかで生きるのではなく、両極を揺れ動く中で本当の生きる意味(中庸:ちょうどよい所)を知るわけです。


この物語は、最終的にピノッキオの生みの親である「ジェッペッド(父親のような存在)」をサメのお腹から救い出し、その後病気の「仙女」(一旦は亡くなりましたが、その後復活をするのです)を自分が稼いだお金で助け、その結果操り人形から人間になるという結末を生むのですが、講師の和田先生は、これを単純な成長物語としてではなく、人間の理性と感情の間で揺れ動く姿(「両義性」)の重要性を強調されます。


良いことだけで人生を歩みたいですが、時には失敗したり思い通りに行かず落ち込むことも起こるわけで、そうした中で悩み考えることが、次の成長につなげることができるのであれば、どんな経験も自分の肥やしとなるわけですね。