良い映画とは何でしょう?
それは見る側に答えを与えてくれる映画かもしれません。あるいは見る側を考えさせる映画かもしれません。
今回の「サーミの血」という映画は、「見る側を考えさせる映画」です。
北欧には「サーミ人(古くはラップランド人)」と呼ばれる、北極に近い地域で狩りをしながら生活する遊牧民族がいます。現代になって、彼らの多くは都市への生活に適応しつつあるようなのですが、いまだにトナカイを飼いならして牧草地を転々とし、テント暮らしをしている人たちがいるそうです。
この映画はスウェーデンを舞台に、あるサーミ人として生まれた女性の半生を描くストーリです。
彼女が若かりし頃、1930年代はサーミ人は差別されていました。狩猟民族は一般人に比べ能力的に劣るとか、動物の肉を主食にしている彼らは野蛮であるなどと普通に信じられていたそうです。
またサーミ人たちも、自分たちの文化や生き方を離れることができず、遊牧の生活を運命づけられている人たちでした。
そんな中、思春期のヒロイン「エレ・マリャ」は、いつも着ていた民族衣装を脱ぎ、洗濯物として干してあった他人のワンピースを着込んでダンスパーティーに出かけます。そこで、スウェーデン人の若い男性と恋に落ちる。
彼女には、思春期特有の好奇心と、自分の将来を切り開くエネルギーのようなものがありました。そして彼女は恋に没頭し、教師になるために学業を志すようになります。これは民族の違いに関係なく、人間の思春期に秘められている潜在的なエネルギーだと思います。
しかし彼女には、サーミ人という宿命があるのです。簡単には街の生活に馴染むことはできませんし、人々の理解も乏しい中で生きていかなくてはならない。また彼女の家族も、そうした生き方を認めない。誰からも理解されない大きなハンデを抱えながらも、それでも彼女は自分の信念を持とうともがく。
後半に、彼女は母親に学校の授業料を工面してほしいと願い出るシーンがあるのですが、その中の彼女の狂気じみた執念や、母親とのぶつかり合いは、この作品の中で最も印象的なシーンの一つです。
監督の「アマンダ・シェーネル」は、彼女自身もサーミ人の血を引く女性なのですが、あるインタビューでこんなコメントを残しています。
『“血”という言葉を入れたのは、
少女の可愛らしさより、思春期の少女が持つ暴力性と
過酷な人生の側面を伝えたかったから』
思春期の荒々しさと有り余る自立のためのエネルギーを表す心理学の言葉に「疾風怒濤(しっぷうどとう)」というものがありますが、先のシーンではこの言葉そのものが象徴的に描かれています。
さて、彼女は成人期以降、自分の意思を貫いた人生を送ったようなのですが、それが良かったのか悪かったのかは、実はこの映画では描かれていません。映画では先の思春期の彼女の決断のシーンの後は、時間が飛んで年老いた老婆になった彼女が現れるのです。そこでテーマとなるのは、家族を捨て都会の生活を送った人生が彼女にとってどうだったのかということ。
そしてその思いは、彼女の口からははっきりと発せられません。ただ一つあるのは、ずっと会うことがないまま死んでしまった妹への『私を許してくれ』というセリフだけ。
彼女は苦しみながらも自分の意志を貫いたとも言えるし、自分の思いのために家族を犠牲にした罪悪感のような気持ちもあるようなのです。彼女のその時の気持ちはどっちなのか?。もしかしたら彼女は人生の後半において、それをはっきりさせたかったのかもしれませんが、実際は風に揺れる牧草のように、揺れつづけるだけのようでもあった。
そうして見ている私達それぞれも、自分の人生を振り返りながら、自分の人生がどうなのかを考えさせられてしまう。
そんな余韻を与えてくれる映画でした。
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