「依存症」と言って一般の方が真っ先に思いつくのは、「アルコール依存症」や「薬物依存症」などかと思います。最近では「インターネット依存症」や「ゲーム依存症」なんて言葉も聞くようになりました。
しかし実は依存症の概念はもっと広く、「ギャンブル依存症」「買い物依存症」「仕事依存症」「恋愛依存症」「セックス依存症」なんてものもありますし、「摂食障害」「自傷行為(リストカット等)」「虐待」「DV(ドメスティック・バイオレンス)」「万引き」「盗撮」なども依存症に含まれるとの考えもあります。
さて、今回はこうしたいくつかの依存症を理解を深める意味で、「依存症とはなにか?」ということで考えてみたいと思います。
まず第一に「○○依存症」とは、ある特定の行動や関係、物質などに固執したりのめり込んでしまう状態で、特にそれがやめられなくなって生活に支障が出るようになった際に病気となります。
一方で私達人間は、多かれ少なかれ何かに「依存」して生きているという側面もあります。「依存」というと子どもっぽいみたいにイメージされ、自立した大人にとっては恥のように思われがちですが、適度な距離を持って、またそれが自己成長に役立ったり生産的だったりもすると、「趣味」や「生涯学習」とも捉えられます。
つまり「依存」の問題を考える時には、このような「『問題ある依存』と『許容される依存』という『2つの側面』」を理解しておく必要があります。
例えばアルコール依存症の治療には「断酒会」や「AA(アルコールアノニマス)」と呼ばれる『自助グループ(ミーティング)』に参加することが推奨されます。そして多くの人が、こうしたグループに継続的に長期間参加することで回復しています。
こうした人たちの中には、例えば毎晩各地で行われる自助グループに渡り鳥のように参加したりして、「自分は『断酒会(AA)依存症』だ」とおっしゃる方が少なからずいらっしゃいます。彼らは自分の健康のためだけでなく、多くの同じ悩みを抱える仲間に会いたいという気持ちで積極的に参加しているのです。私はこのような方々に出会う中で、依存症の治療とは問題のある行為を「やめさせる」のではなく、より健康的な依存症を作り出してそっちに移行させていくことなのかなと思うこともあります。
だから単に「やめなさい」と言うだけでは、なかなかやめられないのも依存症です。そうした批判は、本人としては「自分を理解していない」という気持ちにさせて逆に強情にさせてしまう場合があります。また依存の場を失うことで、自分の存在意義がなくなるように不安を感じる人さえいます。
さて「依存を移行させる」とはどういうことなのか?もう少し具体的に見ていきましょう。
さっき紹介した自助グループのミーティングにはルールがあって、代表的なものに「人の批判をしない」というものがあります。依存症者の過去の体験談は、実社会では「それじゃあだめだ」「そんな了見だから信頼されないんだ」「あんたはひどいね」なんて言われちゃうわけですが、自助グループでは批判をされず受け入れれてもらえる。参加しているのはみんな当事者なので、自分の体験とオーバーラップして、ウンウンと頷いてもらったり、涙を流す人さえもいる。「承認欲求」が満たされるのでしょうか?だから「依存」しちゃうんです。
例えば「万引き」などは、とてもじゃないけどその問題行動は一般人には受け入れてもらえないわけです。しかし彼ら(彼女ら)には共通した「行為に至るトリガー(きっかけ)」のようなものがあったりする。それは「孤独」や「さみしさ」だったり「空腹」であったり、女性であれば「生理前の不安・イライラ」であったり。言葉にできない「湧き出す衝動」であったり。時に「幸福感」なんてものもあるかもしれない(=破壊衝動)。まあ一般人には理解不能でも、彼らには「うんうん、わかるよ」「あなたもそうなんだ!」みたいな話でもある。
もちろん自助グループは『回復を目指す集団』なので、「わかりあって自分たちを正当化する場」ではないのですが、理解し合える場があることで万引に頼らずに、自分の心と付き合っていく余地や可能性が開かれてくる。
ここまでの話をまとめると、前半で多くの依存症の種類を挙げましたが、依存症理解にはそのそれぞれに違いやが特殊性があると見るだけでなく、共通点として実社会において「受け入れてもらえない」「居場所がない」人たちとも言えるのではないでしょうか。
そうした中で生じる「不安」や「孤独」を解決してくれるのが「アルコール」だったり「薬物」だったり「ゲーム」だったり。時に「暴力」や「問題行動」だったりもする。
だからこのような表面的な問題を「やめさせる」のではなく、その奥にある原因を理解して、その事自体の解決に向かうことが、依存症の回復には重要なのだと思います。
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