「知っている」ことと「知らない」ことの両方が我々を取り巻いていますよね。
ややもすると、私達は「知っている」世界だけで生きてしまいます。ある程度の経験を重ねている私のような「いい大人」は、特にこうした自分の経験のみを全てだと感じて生きてしまいがちです。
しかし本当は「知っている」の何倍、何十倍、いや何兆倍(無限かも?)もの「知らない」がその背後にはあるわけです。なぜ私達はそうした事実に気が付きにくいのでしょう?
かつて精神的な問題が生じる時に、人々は「視野狭窄(しやきょうさく)」に陥ると説明されました。例えばうつ病では、病院の先生から「休養が必要」と説明されるのに、「私が休めば他の人に迷惑がかかる。だから休めない」と頑なに休養を拒否し、もっと症状が悪化するような人たちがいたりします。うつ病にかかる人たちは「真面目で几帳面」といった性格傾向があるため、うつ病になるまではその性格が会社などでは評価されるのですが、病気になってからは仇になるというパラドキシカルな現象が起こるわけです。しかし見方を変えると、こうした人達は自分の「知っている」世界だけに頼って生きようとし、緊急事態になっても「知らない」世界を拒否してしまうあり方があるように思います。
もう少し専門的な見地から話をすると、精神的な病気になりやすい人たちの中には、自分の「知らない」世界に触れることに必要以上に恐れたり不安を感じたりする人達がいます。そのため時に考えの違う人を過剰に排除したり、接触を拒んだりする。深層心理学ではそれを自分の「影(shadow)」とも説明しますが、そのあたりはまたいずれこのブログでも触れたいと思います。
結論的にはこころの健康には「柔軟性」が重要という、ごくありふれた話なのですが、そうした意味でも実は健康なうちから、「知らない」世界にも開かれていることは重要なのではないかと思います。
そのあたりで一つ参考になるのは、みうらじゅん氏の「修行」の話。例えば氏は「毎月、新作映画のラインアップを見て、“これは向いてないな”と思うような映画をわざと映画館に観に行く」そうです。自分の好きなジャンルにのみ触れ続け他のジャンルには触れないのではなく、”向いてないな”という直感にあえて挑むような姿勢。そこには失敗が何度も訪れるのですが、それを恐れずに「修行」する。そして見聞を広げ、思いもしない自分の可能性を開く。まあ彼ほどストイック?でなくても、あえて自分の「知らない」世界に触れていくことは、様々な広がりを生むのではないかと思います。
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